再写些什么吧

昨晚无意间翻到了以前的部落格

很多回忆陆续播放
再写些什么吧
因为以后某个时间也许会翻到看看
今天是平淡无奇的一天
あした、日本語を勉強します。
(是不是今后应该尝试着也用日文记博客呢)
构造的东西其实也不难,只要認真看下去。
Konbanwa,本人今日最后一句话送给韩国大哥/小弟(?)
明天,继续。
Everyday is a copy of yesterday
我还是这个样子,呵呵
无论怎样
请加油吧。
@藤が丘

Advertisements

关于「李龍祥」

『「中華」に関する意識と実践の人類学的研究』

***発表要旨***(『通信』97号に掲載済)

平成11年度第2回研究会
日 時: 平成12年1月29日(土)・30日(日)
場 所: 沖縄国際大学文学部会議室
報告者: 1.宮岡真央子(東京外国語大学大学院研究生)
「植民地における出会いと他者像――台湾先住民族ツォウの「マーヤの伝承」を事例として」
  2.笠原政治(共同研究員・横浜国立大学)
「『認識臺灣』の“認識台湾原住民”度」
  3.李 鎮栄(名桜大学)
「亡命ベトナム王族の祖先探しと歴史認識」
  4.中西裕二(福岡大学)
「ベトナム南部の華人子孫に関する民族カテゴリーと信仰-ソクチャン省D村の明郷(Minh
hu’o’ng)概念とong bon信仰-」

***報告の要旨***

1.「植民地における出会いと他者像――台湾先住民族ツォウの「マーヤの伝承」を事例として」/宮岡真央子

 日本統治下の台湾では、先住諸民族の植民地状況への適応や抵抗の過程は、民族集団ごとに実に多様であった。この違いには、日本が台湾を領有する以前の彼らの社会状況や民族文化が大きく関わっている。ツォウの間では、かつて「マーヤ」という異民族と共住し別れたことが伝えられているが、日本の植民地統治開始期に、日本人はマーヤでありツォウの兄弟であるという言説が生まれ、以後の植民地の展開過程は非常に平和であった。この背景には、それ以前のツォウと漢族との関係がある。ツォウは清朝時代に漢族商人を通じて納税する「帰化生番」であり利益をめぐる確執があった。また彼らの領地は漢族移住民の開拓前進によって常に浸食され狭められていた。この経験からツォウの間には「暴戻」で「貪欲」で「狡猾」な漢族像が伝えられている。この二者の関係の上に日本の植民地統治は開始された。ツォウは自分たちに伝わる親縁性を持った他者のイメージを、それとは対照的な漢族と比較することで、日本人に当てはめたのである。植民地における出会いと他者像が文化的・社会的・歴史的な文脈に枠づけられるものであるということを、本事例は示している。

2.「『認識臺灣』の“認識台湾原住民”度」/笠原政治

 台湾で1998年から使い始めた國民中学の新教科書『認識臺灣』(歴史篇・社會篇・地理篇)は現地でさまざまな論議を喚んだが、その台湾先住民に関する記述にも、人類学研究者からみれば検討を要する問題が少なくない。「歴史篇」では、原住民社会は主に「史前時代」の章に記述されており、しかも、近代・現代の民族分類や分布図、写真などが時間を遡及するようにして用いられている。それ以外の記述は、牡丹社事件と日本の台湾出兵(1874年)、霧社事件(1930年)などの箇所に断片的な説明が見られるだけで、現在の原住民については本文にまったく言及がない。他方、「社會篇」においては、現代の台湾社会を構成する原住民、南人、客家人、外省人(新住民)の「四大族群」が指摘され、その融合・融和が高らかに謳われている。そうした主調音の中で、原住民という存在の独自性は、ともすれば掻き消されがちになってしまうのである。『認識臺灣』が教育現場、さらには台湾社会において今後いかなる評価を受けることになるのか、原住民研究の立場からも注視していく必要があろう。

3.「亡命ベトナム王族の祖先探しと歴史認識」/李 鎮栄

 発表は13世紀にベトナムから亡命したとされる一族の祖先探しの旅から韓国とベトナムにおける歴史認識と親族原理の構造の差を族譜の問題と関連して考察するものである。

 1992年12月に韓国とベトナムの国交が修復されるや花山李氏一族の祖先探しが本格化する。花山李氏は13世紀にベトナムの李王朝(1010-1225年)が陳王朝によって滅びた際に、李王朝の王子(李龍祥)とその一族が外戚陳氏による「李氏狩り」を逃れ国外脱出、朝鮮半島の北部の黄海道に漂着したという私的記録を持つ一族である。伝承は族譜という形で韓国に存在する。一族の代表は1994年5月ベトナムを訪問し、ベトナム李王朝の建国の地であるハノイ近郊のDingBang村を訪れて今も残る祀堂に参拝した。DingBang村を訪問した李王朝の子孫(自称)たちは熱烈な歓迎を受けたとされる。この出来事は両国のマスコミにより大きく取り上げられ、時空を乗り越えた祖先意識の顕現の美談として注目を集めた。

 しかし、両国のマスコミの記事の取り扱いの姿勢にはいくつかの相違点がある。その一つは歴史認識に関するものである。韓国のマスコミが花山李氏の主張を「事実」として取り扱い、「歴史」に価値を与えている。これに対してベトナムのマスコミは「歴史」そのものに対する意味付けよりは、歴史的出来事をきっかけに経済発展のための投資を期待しているのが際立った特徴といえる。

 実際、韓国社会においては「歴史的過去」が今日においても意味を持ちつづけていて「生きている過去」として語られることが多い。過去を現在と結ぶ意識は個別家系の族譜を通じて保たれる。韓国におけるの士族への族譜の普及は17世紀後半からのもので、「偽譜」「濁譜」が常に問題となっていた事実もあって「記録の操作」を考慮に入れないといけない。しかし、一般には文字のブランド性が作用してるせいか信頼されている状況である。族譜の普及は朝鮮王朝が強力な出自社会を目指す過程の中で生み出された制度物といえる。この族譜の存在が現在と過去を結ぶ架橋の役割をしている。

 ベトナムにおいても族譜は存在し、実際の村落調査でも族譜が見つかる。しかし、ベトナムの父系親族組織であるDong
ho(ゾンホ)は常に分裂する仕組みを見せており、族譜の存在がゾンホの維持・結束に不可欠とはいえがたい。また、養子制度や位牌祭祀の継承律がゾンホを維持するための仕組みとしては機能していない。それはベトナム社会がキンドレッド的なベースの上に出自社会の原理を移植したが朝鮮朝ほどには至っていない。末成はベトナムの親族組織の原理を「父方キンドレッド」と称するが、的を射た指摘といえよう。 このように二つの異なる親族原理をもつ社会においては族譜という記録が持つ意味あいも異なるものと理解できよう。花山李氏一族の歴史の意味付けはベトナム人の歴史の意味付けと異なるのは自然な考えである。花山李氏一族が王族の末裔としての意味付けに奔走しているのに対してベトナム人の反応は至って冷静であることも上述した観点から理解できる。

 花山李氏一族は今なお過去の栄華を夢見ている。それは700年という時間の空白と韓国とベトナムという空間の空白を飛び越えるものである。花山李氏の一族にとって族譜の記録は、比較的劣位に立たされている社会的な威信の上昇を計ることができる「偉大なる外部」に他ならない。実際、花山李氏一族の男性たちは「王族」としての自覚を持ち、会社勤めを辞めたり、「祖国(ベトナム)帰還運動」(未実現)を行ったのもこのような意識の延長線で理解できる。さらに、花山李氏一族の財政状況とは無関係に工業団地建設と大学設置などベトナム再建計画ともいうべき巨大案をいくつか発表しているのも支配者としての王族意識の表わしているといえよう。

4.「ベトナム南部の華人子孫に関する民族カテゴリーと信仰-ソクチャン省D村の明郷(Minh
hu’o’ng)概念とong
bon信仰-」/中西裕二

 ベトナム南部メコンデルタ地域のソクチャン省D村は、先住民であるクメール人の居住域に、キン族と華人が流入し現在の形が形成された。D村では、正確な統計は不明であるが、民族間の婚姻が過去、現在とも多いため、ミンフンと呼ばれる混血のカテゴリーの人々が多くいる。明郷(ミンフン)とは、元来は明朝滅亡後(1693年)、ベトナムに亡命し当時まだカンボジア領であったメコンデルタ地域(ミトー)に入植した人々を意味するが、現在では混血の意にも使用されている。D村にはキン族の宗教施設はなく、クメール系の上座部寺院と華人廟があり、ミンフンと華人の信仰の中心がこの華人廟となっている。本報告では、D村における民俗的なミンフンの概念、そしてD村の華人廟、及びソクチャン省やホーチミン市を含むベトナム南部に住むミンフンと華人の信仰する
ong bon
神(漢字に直すと“翁本”、漢語での表記では“本頭公”)信仰について報告を行い、ベトナム華人研究、明郷研究のの持つ意味、そして他地域の華人研究との比較の可能性について検討を行った。

http://www.aa.tufs.ac.jp/~ymio/com_10.html#3

純血主義 순혈주의
1226年、茫茫大海を漂流していたベトナム人が、黄海道(ファンへド)甕津(オンジン)半島の花山(ファサン)に上陸した。 陳王朝に権力を奪われたベトナム李王朝の二男王子、李龍祥(イ・ヨンサン)だった。 筆談で李王子の身分を知った高麗(コリョ)朝廷は、彼を花山君に封じた。 花山李氏の出発だ。 ベトナムでは毎年陰暦3月15日に李王朝の宗廟祭礼を行う。 滅族したと考えられていた李王朝の子孫が韓国に暮らしていることを知ったベトナム政府は、1995年の祭礼の時、花山李氏宗親会長を祭主に招請した。 ベトナム語を知らない宗親会長は韓国語で祭文を読み、ベトナム人が通訳したという。

韓国人は単一民族だといわれる。 しかし、わが民族の源流は北方系と南方系に分かれるというのが学界の定説だ。 北方系は脚は長いが、上体がやや矮小に見え、手が短い。 南方系は手が長く、上体が発達しているが、脚が短く、内股のように見える。 故・鄭周永(チョン・ジュヨン)現代(ヒョンデ)グループ創業主は北方系を、朴泰俊(パク・テジュン)元国務総理は南方系を代表する姿に挙げられる。

姓氏からみても、韓国人は「純血民族」ではない。 金海(キムヘ)金氏の始祖・金首露(キム・スロ)王の王妃・許黄玉(ホ・ファンオック)は、インド・アユタ国の王女だったと伝えられる。 記録上、韓半島最初の国際結婚ということだ。 首露王は息子の一部に王妃の性を付けた。 その子孫らが許氏だ。 また韓国の250余の姓氏のうち、130余の姓氏が中国から来た帰化姓氏である。 尚州(サンジュ)李氏である記者の族譜も、始祖が中国から帰化したと明らかにしている。 花山李氏だけでなく、徳水張(トクス・チャン)氏(アラブ系)、延安印(ヨンアン・イン)氏(モンゴル系)、慶州薛(キョンジュ・ソル)氏(ウィグル系)など中国以外の帰化姓氏も少なくない。 最近帰化したロバート・ハリーは、影島(ヨンド)河氏の始祖になった。 

 昨年結婚した9組に1組が外国人と結婚した。 外国女性と結婚した韓国男性が2万5594人、外国男性と結婚した韓国女性が9553人だ。 ブランカ(人名)に代表される外国人勤労者も数十万人だ。 わが社会の高齢化速度を考慮すれば、外国人勤労者は順次増えるしかない。 純血主義から抜け出して、韓民族の範囲を広めるしかない状況になっている。

1226년 망망대해를 떠돌던 베트남인이 황해도 옹진반도의 화산(花山)에 상륙했다. 쩐(陳) 왕조에 권력을 빼앗긴 베트남 리(李) 왕조의 둘째 왕자 이용상(李龍祥)이었다. 필담(筆談)으로 이 왕자의 신분을 알게 된 고려 조정은 그를 화산군으로 봉했다. 화산 이씨의 출발이다. 베트남에선 매년 음력 3월 15일에 리 왕조의 종묘 제례를 지낸다. 멸족한 줄 알았던 리 왕조의 후손이 한국에 살고 있는 것을 알게 된 베트남 정부는 1995년 제례 때 화산 이씨 종친회장을 제주(祭主)로 초청했다. 베트남 말을 모르는 종친회장은 한국말로 제문을 읽고 베트남인이 통역을 했다고 한다.

한국인은 단일민족이라고 말한다. 그러나 우리 민족의 원류는 북방계와 남방계로 나뉜다는 게 학계의 정설이다. 북방계는 다리가 길지만 상체가 다소 왜소해 보이고 손이 짧다. 남방계는 손이 길고 상체가 발달했지만 다리가 짧아 안짱다리처럼 보인다. 고(故) 정주영 현대그룹 창업주는 북방계를, 박태준 전 국무총리는 남방계를 대표하는 모습으로 꼽힌다. 

성씨를 놓고 봐도 한국인은 ‘순혈(純血) 민족’이 아니다. 김해 김씨의 시조 김수로왕의 왕비 허황옥은 인도 아유타국 공주였다고 전해진다. 기록상 한반도 최초의 국제결혼인 셈이다. 수로왕은 아들 중 일부에게 왕비의 성을 붙여줬다. 그 후손들이 허씨다. 또 우리나라 250여 성씨 중 130여 성씨가 중국에서 온 귀화 성씨다. 상주(尚州) 이씨인 기자의 족보도 시조가 중국에서 귀화했다고 밝히고 있다. 화산 이씨뿐 아니라 덕수 장씨(아랍계), 연안 인씨(몽골계), 경주 설씨(위구르계) 등 중국 외의 귀화 성씨도 적지 않다. 최근 귀화한 로버트 할리는 영도(影島) 하(河)씨의 시조가 되었다.

지난해 결혼한 아홉 쌍 중 한 쌍이 외국인과 결혼했다. 외국 여자와 결혼한 한국 남자가 2만5594명, 외국 남자와 결혼한 한국 여자가 9553명이다. 블랑카로 대표되는 외국인 근로자도 수십만 명이다. 우리 사회의 고령화 속도를 고려하면 외국인 근로자는 갈수록 늘어날 수밖에 없다. 순혈주의에서 벗어나 한민족의 범위를 넓히지 않을 수 없는 상황이 되고 있다.





皆さんは韓国の「族譜」というのをご存知ですか。
여러분은 한국의 「족보(族譜)」라는 것을 알고 계세요?

「族譜」というのは父系を中心に
「족보(族譜)」 란 부계(父系)를 중심으로

血縁関係を図表式で現わした「系譜」です。
혈연관계(血緣關係)를 도표식으로 나타낸 「계보(系譜)」입니다.

族譜を見ると自分がどんな先祖からつながって来たのかが
족보를 보면 자신이 어떠한 조상으로 부터 이어져 왔는지를

分かります。
알 수 있습니다.

日本にも「族譜」というものがありますか。
일본에도 「족보」라고 하는 것이 있습니까?

先日、新聞にまた日本人と係わる記事が載っていました。
며칠 전 신문에 다시 일본인에 관련된 기사가 실려 있었습니다.

「千葉県 船橋市」に住んでいる
「치바현 후나바시(船橋)시」에 살고 있는

「大内公夫」という方が奥さんと一緒に
「오오우치 기미오(大內公夫)」라는 사람이 부인과 함께

韓国の「益山市」にある「武王陵」を訪れ、参拝したという
한국의 「익산시(益山市)」에 있는 「무왕릉」을 찾아 참배했다는

内容です。
내용이었습니다.

「大内公夫」さんは百済の聖王(ソンワン)の三男の
「오오우치 기미오(大內公夫)」씨는 백제 성왕(聖王)의 세째아들인

琳聖(イムソン)太子の 45代目の子孫だそうです。
임성태자(琳聖太子)의 45대 후손 이라고 합니다.

琳聖太子は  1400余年前、
임성태자(琳聖太子)는 1400여년전

自分の父親の聖王が新羅軍によって殺害された後、
자신의 아버지인 성왕이 신라군에 의해 살해 당한 후

日本に行った人物だそうです。
일본으로 건너 간 인물이라고 하네요.

日本には韓国の族譜のようなものはないと聞きましたが
일본에는 한국의 족보 같은 것은 없다고 들었는데

大内さんは先祖の時から伝わってきた族譜を
오오우치씨는 조상 때 부터 전해 내려오는 족보를

大事に保管していたのかも知れません。
귀중하게 보관하고 있었는지도 모르겠습니다.

ところで、数年前、 反対の場合ですが、これと似ている内容で
그런데 수년전, 반대의 경우이지만 이와 비슷한 내용으로

韓国で話題になった事があります。
한국에서 화제가 된 적이 있습니다.

韓国の花山 李(ファサン イ)氏の始祖である李竜祥(イヨンサン)は
한국의 화산(花山) 이(李)씨의 시조인 이용상(李龍祥)은

ベトナムの最初の独立国家のレイ(李)王朝の安男国王である
베트남의 첫 독립국가인 레이(李)씨 왕조의 안남국왕(安男國王)인

李川祚の息子で
이천조(李川祚)의 아들로

国が敗亡した後、ベトナムから高麗(コリョ)に移住し、
나라가 패망한 후 베트남에서 고려로 이주해

帰化して暮らすことになったそうです。
귀화해 살게 되었다고 합니다.

彼の子孫は現在、韓国に約 2000人位暮しているそうです。
그의 후손은 현재 한국에  약 2000명정도 살고 있다고 하네요.

約 10年前、何人かの李竜祥の子孫たちがベトナムを訪問した時、
약  10년 전, 몇사람의 이용상(李龍祥)의 후손들이 베트남을 방문했을 때

ベトナムの大統領を含めた 3部要人が出てきて歓迎し、
베트남 대통령을 비롯한 3부 요인이 나와 환영하며

途絶えてしまったベトナムの李氏王朝の王統が 800年ぶりに復活したと言いながら、
끊겨버린 베트남 리씨 왕조의 왕통이 800년 만에 부활했다고 하며

王族級の礼遇をしてくれたそうです。
왕족급의 예우를 해 주었다고 합니다.

人間の歴史とか血統というのは本当に不思議なことですね。
인간의 역사라든지 혈통이라는 것은 참 신기한 것이네요.







《片倉先生の著作を読んで》その1

片倉先生のご高著『朝鮮とベトナム 日本とアジア ひと・もの・情報の接触・交流と対外観』(福村出版、2008年6月、4500円)が出版された。今回は、この著作を紹介して、その感想を述べてみたい。

まず最初に先生の略歴を紹介しておきたい。先生は、1934年、大阪府に生まれ、1956年、神戸大学文学部史学科を卒業され、その後、大阪大学大学院に進まれた。そして、武庫川女子大学、金沢大学、大阪府立大学、桃山学院大学の各教員を経て、2004年、桃山学院大学文学部を定年退職された。この桃山学院大学文学部での「比較文明論」という授業科目の講義ノートを基とした所論が、本書に数篇ほど収められている。

いうまでもなく、先生には、『ベトナム前近代法の基礎的研究―『国朝刑律』とその周辺―』(風間書房、1987年、601頁)という大著があり、日本における『国朝刑律』研究の第一人者である。日本で本著を超えうる研究はその後現れておらず、他の追随を許さないほど、この分野では権威ある歴史学者である。その学者が朝鮮とベトナムとの関係をテーマとした著書を出版されたことは一見意外に思われるかもしれないが、本著の「まえがき」を読めばわかるように、アジア観を探求するという著者の一貫した研究と教育のテーマの現われであることを思えば、読者は納得がいく。

日本とアジアの史的考察は、片倉先生の教育・研究の主要課題であり、その一部は前著『日本人のアジア観―前近代を中心に―』(明石書店、1998年)に結実したのだが、その後もこのテーマを追究し続けておられ、日本と日本人を、アジアという鏡に映して捉える姿勢を一貫してもち続けて学究生活を営んでこられた。
以下、その概要を本文にできるだけ忠実に紹介した上で、いささかの所感と解説を記しておきたい。

 第1部朝鮮とベトナム―前近代―
第1章 崔致遠著「補安南録異図記」
朝鮮とベトナムは、中国や日本とともに、漢字、儒教、律令などの同一文化圏を形成し、東アジア文化圏の普遍性と独自性を考察する絶好の場である。しかし両者の直接的な関係を示す史料は少ないが、本章では、その数少ない史料のうち、崔致遠により著された「補安南録異図記」を取り上げて、その記述内容を検討し、あわせて前近代朝鮮の人びとのベトナム観、史料に描かれたベトナムの社会と文化の一端を窺知する。

まず、崔致遠(慶州の人、858年―?)は、朝鮮人としてベトナムに関する現存最古の一文を草した人物である。彼は新羅末期の名儒であり、新羅十賢の一として知られる一大文人である。12歳で渡唐し、874年唐の科挙に及第し、官界に進んだ。黄巣の乱(875-884)が広がると、政府軍(指揮者は高駢)の従事として4年間従軍し、上奏文や檄文を草して名声を博した。中でも「檄黄巣書」(881年作)は高く評価された。885年に帰国し、新羅の官職(侍読兼翰林学士、守兵部侍郎、知瑞書監)に就いたりしたが、その後、乱世に絶望して政界から離れ、伽倻山海印寺で隠棲した。彼の書名が『新唐書』巻60、芸文志に著禄されるほど、唐でもよく知られた国際人で、彼は「新羅が生んだ東方第一の人物」であった。その崔致遠がベトナムについて記述したものに「補安南録異図記」(『桂苑筆耕集』)という一文がある。この「補安南録異図記」は朝鮮人がベトナムのことを記した現存最古の史料であり、両国の歴史的関係、文化交流を考察する際に、第一級の価値ある著作である。しかし研究者の間でも議論の対象になってこなかった作品である。そこで、①執筆の理由、②その史料的価値、③崔致遠のベトナム認識の解明という3つの課題から、この一文に関心を寄せて、検討を加えている。

「補安南録異図記」は全文877字の比較的短文であり、その内容としては、安南都護府が管轄する地域の構成、地理的位置、居住する諸蛮とその習俗、生業を記し、南詔の唐への武力抵抗、高駢(?―887)の功績、そして戦後処理と善政を叙述している。この一文で唐の柔遠軍従事の呉降がかつて「図」を集めて「録異」と名づけた作品の補記だから、「補安南録異図記」という名称があり、執筆年代は「翠華(天子の旗)幸蜀之三載」、つまり883年である。呉降の場合、「華」とは異なる「異」なるものを識別、差別して特記する立場をとっていたのに対して、崔致遠の場合、南詔を帰順させた高駢の偉大なる功績を「異」とみなし、呉降の「録異」に欠けているこの部分を補った理由が記されている。

「補安南録異図記」の問題点として、全文がベトナムに限定された記録ではなく、唐代の嶺南地域という広範囲にわたっており、崔致遠のベトナムに関する知見は限定的に把握されていない点がある。ベトナムの人と文化が特記されているという点では『太平寰宇記』の方が優れている。また生業に関しても、「俗無桑蚕之業」とあるのは、越の地でも桑蚕の業が存在したことを記す『漢書』『後漢書』『三国志』といった中国の文献とも矛盾し、これらを渉猟・参照して記述されていない点にも問題がある。

さて、「補安南録異図記」の冒頭部分には、唐代の安南都護府所属の正州および覊縻州の州名と州数(唐代はある時期を除いて郡を改めて州とした)を記すが、その根拠が判明していない。すなわち、安南都護府下に12郡と58覊縻州が設置されたと記しているが、まず郡の数について、それらの郡(じつは州)名を『新唐書』地理志、『元和郡県図志』と比較すると、府城のある交州が省略されている上に、蘇茂州という州が安南都護府に所属したことは確認しえない。また『古代中越関係史資料選編』(1982年、中国)に収録された「補安南録異図記」では、虞林郡を虞郡と林郡と誤読しているので注意を要する。

次に安南都護府下の「覊縻州」の数を58州とする点も、従来の研究では一般に41州であり、44州、32州とする文献もあるが、58州とする出典も研究も見当たらないので、不可解とする。崔致遠が58州と書く根拠が判明せず、今後の課題とする。唐の昭宗時代(888-904)に広州司馬の任にあった劉恂が撰した書に『嶺表録異』(全3巻)があるが、この書に魯迅が校勘を施した。その校勘本の中に「交趾之人重“不乃”羹」の条の末尾に、「《安南録異》図鑿歯、穿心、飛頭、鼻飲者、皆遺風也。」という注がある。この注にみえる『安南録異』は崔致遠の「補安南録異図記」の略称ではないかとし、この注も魯迅が挿入したものと推測している。

さてこの「補安南録異図記」の内容については、2つの問題点がある。第1にこの書はベトナムに関する文献史料のみを参照したのではなく、自らが従事した高駢やその軍団から得た独自の情報知識に基づいて記述したと推考している。この高駢とは864年に都護総管経略招討使に任じられ、チベット・ビルマ系の南詔を北部ベトナムから追放し、ベトナム在任中(864-868)、大規模な羅城(ハノイ)を築いたことで知られる人物である。崔致遠は中国の東南部広州にまで転戦しながら、自らがベトナムの地を踏むという実体験はなかったものの、高駢のようなベトナム通から、その情報を得たことは考えうるという。

第2に、崔致遠のベトナム観の問題がある。崔自身が弾圧した南詔に対して、夷狄用語で表現し、またベトナムにも南蛮と捉える見方が基本となっている点から判断して、唐という華の中心の軍事集団に属する文人として、南詔およびベトナムを夷蛮として捉えているという認識の限界があったと指摘している。黄巣軍が人民の間から発生したことを見極め、弾圧だけでなく、徳で治める仕方を主張するなどの識見を崔は持っていたが、対ベトナム認識については、一般的・伝統的な南蛮観を超えてはおらず、一定の限界があったというのである。

第2章 「趙完璧伝」の一研究
趙完璧は晋州出身の士人で、生没年月は不詳である。「趙完璧伝」によれば、「弱冠」(20歳か)、「年少」にして、「丁酉倭変」(「慶長の役」1597年)に遭い、日本軍に捕らえられ、日本の京都に連行された。一方、『国朝榜目』(科挙合格者名簿)には、朝鮮王朝明宗(1545-1567)の1549年の進士及第者の中に、趙完璧という名があり、晋州の白川出身と明記されている。ただ1549年には、「弱冠」「年少」という年齢ではなく、先の2つの史料のうち、どちらが正しいのかという疑問があるが、この点は著者は保留し、一応「趙完璧伝」に従い、筆を進めている。またある「趙完璧伝」によれば、彼は故掌令・河晋宝の姪孫女(まためい)の婿だったとあり、彼の妻も士人層の出身と推測される。この河晋宝も晋州出身で、1555年の進士合格者であった。

ところで、『国立晋州博物館 壬辰倭乱』という冊子には、イタリアの商人カルレッティが長崎で趙完璧をはじめ、朝鮮の子供5人を購入し、インドのゴアに連行し、当地で4人を解放し、再び日本に戻ってきたことをカルレッティの旅行記(『世界周遊記』と訳出)に明記されているかのように説明されている。しかし、この旅行記には、5人の中に趙完璧と名乗る人物が含まれていたとは明記されておらず、また「趙完璧伝」にも、長崎からゴアへ連行されたことなどに触れられていないので、先の冊子は何かの誤解であろうとする。日本への連行後、彼は文筆の才を認められ、「主倭」(商人の角倉了以)に傭われ、渡航の暁には解放するという約束で、日本の朱印船に乗り込み、1603年から連年3度、当時の安南(ベトナム)を往還し、呂宋(フィリピン)にも1度渡航し、両国を見聞する異国体験をした。解放するとの誓約書は度々反故にされた。それでも海外滞在期間10年(1597-1607)を経て、1607年にようやく趙完璧に帰国できる機会が訪れた。この年、修好(国交回復)・回答兼刷還(国書の回答と被虜人の刷還)使の帰国に際し、被虜人とともに祖国の土を踏むことになったのである。10年ぶりの帰国ではあったが、老母と妻はつつがなく暮らしており、生きて再会する感激を共有することができた。そして帰国後、趙完璧を語り手、情報提供者として、見聞と体験を盛り込んで、伝記として作成されたのが「趙完璧伝」である。そこには、ベトナムという未知の国の人と風物、文化に触れ、南の世界に漢字文化圏が存在することを実体験した記録がある。中には、渡航中に龍(鯨などか)に襲われたとき、鶏や硫黄を焼いて、その臭気で龍を退散させていたという興味深い話や、ベトナムの高官・鄭勦(文理侯・宦官)や知識人との交流なども記されている。

ところで残念なことに、趙完璧自筆の自伝は現存せず、後世の文人らの文集に収録されて伝わるのが「趙完璧伝」である。すでに岩生成一氏[安鼎福(1712~1791年)の自筆稿による伝を紹介]、崔常寿氏の研究があるが、著者は8種の「趙完璧伝」(最多字数が全1529字のものから、537字のものまである)を比較参照することによって、次のような疑問点を指摘している。同一内容の「伝」(本文1529字)が、李睟光(1563-1628年)と鄭士信(1558-1619年)といった異なる著者の文集に収録されている点、またこの2人の人物が同一内容、同一字数で字数の少ない「伝」(本文1125字)も存在する点である。また全体として簡略された「伝」でも、趙完璧の妻の出自のことや、3度にわたるベトナム渡航となった経緯とかベトナムの習俗について、独自の記事を載せており、字数の多寡で一概に史料的価値の大小は計れない点も挙げている。このように「趙完璧伝」の定本がない現状に顧みて、李睟光の「趙完璧伝」を底本として、誤字・脱字や諸伝間の出入りを逐一比較して、校合した結果の定文を載せて、今後の研究に資している。

第3章 済州島吏民のベトナム漂流記録
近年、東アジアの漂流民をめぐる諸問題の研究が目立つようになってきたが、漂流記は国家や民族を超えた、いわば、境界の問題を考察するための新しい歴史研究の分野において貴重な史料である。漂流民の行動は一種の文化交流であり、漂流記はいわゆる正史類にはみられない記述も含んでおり、相互の社会状況とか外国観を知るための重要な史料である。

ここに紹介するベトナム漂流記は、前近代朝鮮人のベトナム観、および両国の歴史的関係を知るための貴重な記録である。1687年に済州島の吏民がベトナム(安南)に漂着し、その後帰国したときの状況を書きしるした漂流記録が鄭東愈(1744―1808)の『晝永編』(『昼永編』)に収録されている。鄭東愈によると、1727年に、訳官だった李斉耼が済州島に出張したとき、安南に漂流したことがある高商英に会い、その漂流の顛末を聴き、漂流記を作成した。この安南漂流記は、1788字(うち漂流記自体は1282字)からなる漢文である。
その漂流の経緯に関しては、1687年に済州島の吏民24人は楸子島(済州島北済州郡楸子島)の近海で大風に遭い、17日間漂ったところで一島の巡邏船に保護され、会安郡明徳府(フェイフォ、現クアン・ナム、ベトナム中部の貿易港)に連れて行かれた。当地の官員は筆談で問答したが、その際に過去にベトナムの太子が朝鮮人に殺されたことがあり、その復讐のために殺されそうになるが、挙止端正な一婦人の執り成しで、漂流記をある島に送るように命じた。ある日、5人が首都昇龍に招待され、国王(熙宗黎維袷か)に謁見したところ、各々に酒食、および米1石、銭300を賜った。そして一行は生還を哀願したところ、国王は憐れに思い、許諾した。国王は、朝鮮国王宛の、正和9(1688)年7月22日付の移文(官文書の一種)を作成させた(この移文は国王の命を奉じた明徳侯呉爲という人物が書いたことになっているが、この人名は当時のベトナム文献には見当らないという)。中国商人の朱漢源、船戸(船舶所有者または回船業者)の陳乾らに頼んで、漂着民を朝鮮に送還することにした。この商船は、1688年8月7日に出帆し、寧波府(浙江省鄞県)、普陀山(浙江省杭州湾東端)を経由して、12月に済州の大静県に到着したというのである。このベトナム漂流記が史実に基づいていることは、『粛宗実録』巻20、1689年2月辛亥条に、送還時の朝鮮王朝の対応についての記事があることから明らかである。鄭東愈『昼永編』に収録されたベトナム漂流記録は、当時のベトナムの状況を示す興味深い史料である。例えば、漂流民を救助しに近づいてきた武装した「巡邏船」が海上防衛のための巡回していた様子が窺える。また救助された漂流民とベトナム人との交流、意思の伝達は、同じ漢字文化圏であるということで、筆談で行われたことがわかる。この言語文化の共通性が、漂流民の救助、帰還という幸運を導き出す一要因になった。つまり前近代東アジアの国際語の中心が漢語・漢文であり、漂流という極限においても、これらを理解できるか否かが、その運命を左右するに近い意味をもっていたとする。

漂流民たちは、ベトナムの自然、社会と文化に関する情報を提供してくれている。例えば、「土地は肥沃で、水田が多く、その民は三男五女(子どもが多く、女の子が多い)、気候は四季を通じて春のように暖かかった」とベトナムの温暖な気候について書き、牛・猿・象・孔雀や檳榔樹・芭蕉・棕櫚・黒檀・白檀・龍茘・薑(はじかみ)など多様で珍奇な動植物について記し、衣食についても、単袗(ひとえ)で幅広い袖の衣服を着、「1年に蚕は5度、稲は3度獲れ、衣食は豊かで、飢え寒さの憂いはなかった」という。そしてベトナム社会については、女性の地位が高いことに注目した。例えば、ベトナム王子が朝鮮人に殺されたので復讐すると脅したとき、「挙止端雅」な一婦人が現われ、「爾等勿哭。我国本無殺害人命之事。欲留則留、欲去則去」と、書をもって示し、軍卒に命じてある島に送らせ、漂流民たちは結局、この一婦人に救われた。そして漂流記にも、ベトナムは一般に「男賎女貴」と明記した。この表現が適切であるか否かは別として、当時のベトナム社会は、朝鮮、中国や日本に比して女性の社会的地位が相対的に高かったことは、社会的生産労働者として、財産相続者、不動産の所有権者として、重要な役割を果たしたことは、従来の研究からも証明できる。この点、この漂流記の信憑性と史料的価値を高めるものであると著者は考えている。

先に触れたように、漂流民たちは会安郡明徳府で、一度殺害されそうになった。そのときの模様は、「又書示曰、我国太子、曽爲朝鮮人所殺。我国亦当尽殺爾等以報讐。渠等見書、放声号哭。」とあり、「かつてわが国(ベトナム)の太子が朝鮮人のために殺されたことがあるから、お前たちをことごとく殺して復讐しなければならない、といわれたので、一行は声を上げて号哭した。」というのである。この点に関しては、ベトナムの太子が朝鮮人に殺されたことは、ベトナムや朝鮮の史書類には見当たらないが、ベトナムの地には太子殺害の伝承、伝聞の類が存在していたようである。漂流物語を描いた文学作品である張漢喆の『漂海録』(1771年作)には、1770年に張漢喆らは済州島を出航後、突風により漂流したが、豆の交易で日本に向かう途中のベトナム商舶に救助された。しかしベトナム人たちは、一行が耽羅(済州島)人とわかると、その昔安南世子(太子)が難破して耽羅に漂着したとき耽羅王(事実は済州島の牧使)に殺害されたので復讐しようといきり立ち、再び大海に放り出され、漂流を余儀なくされたことを張漢喆自らが記している。彼は奇跡的に生還し、単身上京して科挙に臨んだが、不合格であった。このことから、朝鮮人による安南太子殺害云々の伝承は、史実としては認められず、誤伝であったかもしれないが、当時のベトナムに存在していたであろうと著者は解している。ただ、朝鮮における琉球王子殺害の史実と、このベトナム側の伝承との関連性については、未解決で、これからの課題とする。

片倉先生の著作を読んで その2

第4章 花山李氏の族譜試論―朝鮮のなかのベトナム
韓国の国立中央図書館に所蔵されている李承哉編『花山李氏世譜』(以下『世譜』と略記)によると、ベトナムの李朝(1010-1225)末期、朝鮮の高麗王朝(918-1392)高宗(在位1214-59)のころ、李朝の王子だった李龍祥という人物が国外に脱出し、黄海道甕津郡北面花山洞里にたどり着いた。おりしもモンゴル軍の侵略があり、この王子はモンゴル軍の国土蹂躙に抗戦した。王子の功績に対して高宗は花山君の爵号と食邑を賜与した。これが花山李氏の始祖だという。

この花山李氏の始祖説話が史実に基づくのか否か、なぜ花山李氏の始祖がベトナムの王子なのかという問題を、伝承の類で根拠のない創作であると単純に切り捨ててしまうのではなく、朝鮮のなかのベトナムを考察する試みの一つとして、取り上げる価値があるとする。
この問題に日本で最初に注目したのは、金永鍵氏であった。氏は李朝の一王子・李龍祥なる人物がたどり着いた朝鮮の地を訪れ、長老から伝承を聞き取り調査をし、また当地には始祖から三代までの墓も残っていたという。一方、韓国の研究者としては崔常寿氏が重要で、花山李氏の族譜の原文と韓国語訳を紹介した。

その後、1992年に韓国とベトナムの国交が樹立し、李氏一族の先祖探しが展開され、1994年には、一族の代表が李朝創業の地、バクニン省ティエンソン県ディンバン村を訪れ、李朝の祠堂に参拝し、歓迎を受けた。近年、ベトナムの若者の間に起こっている韓国ブームにも、花山李氏の子孫をめぐる交流活動が一役買っているという。

2001年、韓国の金大中大統領は、韓越首脳会談でベトナム戦争への参加を謝罪し、両国は良好な関係を築いてきたが、この花山李氏の子孫を報じる論調およびマスコミの取り扱い方には両国で相違点があるという。つまり、韓国では花山李氏の主張を事実として扱い、歴史に価値を与えているのに対し、ベトナムのマスコミは、この歴史的出来事を契機に経済発展のための投資を期待しているというものである。ここには歴史認識の違いがあり、同じ族譜を有する文化であっても、その意味合いや親族的原理の相違が存在すると分析する韓国人による研究も現れている。

本稿では、花山李氏の『世譜』『実録』の成立事情の検討とその史料的価値、ベトナム李朝の王系・王号の正確性を中心に検討されている。

本論のテキストである『世譜』は、序の記載によると、1706年に最初の序が執筆され、1777年、1837年、1873年、1917年に修補を経たものである。さらに最新版の花山李氏の『族譜』は1987年、2004年にも修譜が施された。これらの序文で注目されることは、1番最初の序に、ベトナム王子・李龍祥のことが一言も触れられず、始祖がベトナム王朝の王族出身ということを記載していないが、1777年の第2修譜から第5修譜までの序では、始祖たる李龍祥の事蹟が強調されていることである。最初の序にベトナム李朝や李龍祥の名が見当らない理由は詳かでなく、1777年の重修で、初めて李龍祥を始祖とする世系が成立したと推測できる。もし花山李氏の始祖を李龍祥とする伝承を史実と解するならば、この『世譜』の序に、最重要な始祖についてなぜ記載されていないのか説明をする必要があるという。この『世譜』の重修の序に李龍祥が登場する18世紀後半は、偽譜を含む多くの族譜が編纂されたことであったが、この時期に花山李氏のような『世譜』を創出・編纂し得る環境が存在したことを考えてみる必要があるという。まだ第3章で紹介した済州島民がもたらしたベトナム情報とか済州島における琉球王子殺害、朝鮮人によるベトナム王子殺害という伝承も18世紀に相応していることから、これらの情報と『世譜』の成立・重修との関連も、時代状況の中で考えてみてはどうかという。

次に『世譜』のなかのベトナム李朝の王名・王号を検証している。『世譜』巻1の冒頭「分派図」に、「始祖[交趾郡王]李公蘊―徳政[交趾郡王]―日尊[南平王]―乾徳[交趾郡王]―陽煥[安南王]―天祚[安南王]―龍祥[花山君]」とあり、始祖の李公蘊から六世までのベトナム李朝の国王名と、宋朝の皇帝から冊封された各々の王号が記載されており、これらを李龍祥なる人物に繋げている。まだ同署巻1「安南国王世系」総論にやや詳しい経歴が表示されているので、これらとベトナム史書による「李朝王統表」の三者を比較している。第7世に当たる李龍翰の諱を『世譜』では翰(一作幹)と記すが、ベトナムの史書『大越史記全書』、『安南志略』、『欽定越史通鑑綱目』は異なる字を当てている(但し『大越史略』は幹)。一方、中国の史書では『宋会要輯稿』(翰)を当てている。このことから『世譜』は『大越史記全書』の用例を見なかったか、参照しなかったと推測できる。ただ、『世譜』「安南国王世系」総編の七世、子安南王諱龍翰の項に、「其婿陳日照襲主国事。按史記作陳京而日照為京之曽孫、未知孰是。」とあり、按文にみえる『史記』とは、『大越史記全書』を指すとしている。また「世系」総編の末尾には、「以上詳見綱目雑出伝記而云々」と記し、『欽定越史通鑑綱目』をも参照したことを記しているので、『世譜』や『族譜』作成過程でベトナムの基本的史書を参照したことがみられる。

ところで「世系」総編に登場する陳日照という人物は、陳朝を創建した第1代の太宗・陳煚のことである。ベトナムや中国の史書を反映すれば、陳煚あるいは陳日煚となるはずなのに、なぜ花山李氏の族譜では陳日照と表記したのであろうか。かつて『安南史研究1』において山本達郎氏は、宋の周密撰『斉東野語』巻19のなかに、「安南国王陳日照者本福州長楽邑人」とある陳日照は陳煚(陳日煚)の誤記と断定した。花山李氏はある族譜編纂時にこの史料の陳日照を採用し、踏襲してきたのであろうかと疑問を呈しつつ、今後も諸文献を渉猟し、その原因を探る要がある。ただ、朝鮮でベトナムの史書(『大越史略』は別として)が利用できたのは近代以降のことであるので、近代以前では中国の史書を基にして、李氏の族譜が編纂されたことはまちがいないとし、そして李氏の家に伝わる始祖にかかわる家伝類も、現時点では見当らないという。

次に『世譜』の「分派図」と「世系」総編に記された王号に関して説明する。宋の皇帝から李朝の王に叙授された王号には、初封・進封・追封が存在したが「分派図」では初封の交趾郡王のみ記し、南平王への進封を省略していたり、「分派図」、「世系」総編ともに、安南国王に冊封された王を、6世の天祚ではなく、5世の陽煥とするなど、整合性と正確性に欠ける点を指摘している。

その他、李龍祥の系譜に関しても、「花山君本伝」には「君姓李、詳龍祥、号小微子。其先隴西成紀人。系出於有唐之神堯」と記し、その祖先は隴西成紀(甘粛省)の人で唐の高祖・李淵にたどるという。この説は、唐朝の李氏が隴西出身だったことから同じ李姓という関係で李公蘊と唐を結びつけたのであろうとし、唐朝の李姓に淵源するという貴種・名家へのこだわりがあったからと解している。また李氏の族譜中の「墓碭銘」(1904年)にも「其遠祖有李公蘊、中朝人」とあり、李朝を創建した李公蘊が中国人であるという指摘もある。
ベトナムの史書では李公蘊は北江古法州(現バクニン省)の出身、あるいは交州の人と記すが、中国出身説は、宋の沈括の『夢渓筆談』巻25、雑誌2にある李公蘊を閩人(福建)
とみなす説が華人の経済活動などにより伝わったのではないかと推測している。

李朝第7代の李龍 の弟と称する李龍祥が出国して花山李氏となるまでの経緯に関しては、族譜に次のような叙述がある。李龍 が即位すると、嗣子は幼少であり、弟の龍祥は賢く、徳があったので、禅譲の意志があった。そこで幼い恵宗が立つと、叔父の龍祥、平海公君苾および陳日照を三公として国政を委ねることと遺教とした。ところが陳日照は王の姉の昭聖公主と結び、国政を専断したので、李龍祥は苾とともに殷の故事に倣い、祭器を抱えて東方に脱出し、朝鮮にたどり着いた。この李龍祥出国から朝鮮黄海道到着までの経緯については、史実か伝承か判然とせず、検討の余地があるとする。

以上の考察を踏まえて、現時点では、花山李氏の始祖・李龍祥が朝鮮に渡来したベトナム李朝の王子で歴史上実在したと解する材料はないと慎重な判断を下している。一般に、朝鮮の族譜は、輝かしい祖先をもつことを誇りとする傾向があり、これが偽作の作られる背景とされる。花山李氏の族譜のなかで、李朝の始祖・李公蘊を中国人あるいは閩人とみなしたり、李朝を唐の王室と同じ隴西出身と見立てたりしたのも、花山李氏を貴種集団として誇示するための一手段であったろう。花山李氏の族譜編纂当時の朝鮮に、ベトナム王子を始祖として仰ぐことに違和感がなく、誇りに思う意識があった点に著者は注目している。ベトナム王族出身という設定は、両班貴族たる李氏の名誉と誇りを高める重要な役割を演じたことは疑いない。第1章で言及した崔致遠の「補安南録異図記」でみられた華夷意識に支えられたベトナム蛮夷観とは異なる点は看過すべきではない。李龍祥がモンゴルの朝鮮侵略に抗して功績を上げ、花山君に爵封されたという点に目を向ければ、朝鮮もベトナムもモンゴル軍への抗戦という同じ歴史的体験を有し、その共感・親近感がこの始祖物語を創出させたのではないかと著者はみている。

また、済州島に外国人の漂着が多いという状況のなかで、なぜベトナムからの始祖が黄海道に到着し、設定されたのかという問題も未解決のままであり、東アジアの人的、物質的交流という観点から検討する必要があるという。

第5章 阮朝の文献にみえる高麗人参
高麗人参は、あらゆる疫病を治療し、不老長生をもたらす霊薬として知られてきた。朝鮮王朝などは、これを独占し、朝貢貿易や外交礼物として重用し、また王朝の財源として活用した。ベトナム阮朝(1802-1945)でもこの高麗人参は重宝がられ、王朝政治のなかで一定の役割を果たしていた。また、ベトナムの山地では、高麗人参と同じウコギ科に属するベトナム人参が生育していたが、その記録がベトナム文献に散見されるので、文献史学の立場からこれらにも言及している。ベトナムの高麗人参に関する研究は、未開拓の分野であるので、本章では、阮朝統治下における高麗人参の存在状況とその役割を検討している。

『大南寔録』の記載によると、阮朝の皇帝から臣下への賜与の事例は、1830年から1897年までの68年間のうちで、42年に及び、その対象者と理由と、人参の数量について調べている。その結果、対象者については、皇子、尊室、廷臣、文武官、各地に派遣された将士や軍士、功労者の老母、そして100歳に上った一般庶民の長寿者にまで及んでいた。理由としては、賞賜・恩賜、激励、慰問・慰労、病気見舞い、祝いなどが挙げられる。

阮朝は、各種の人参を朝廷に集めたが、その方法としては、行政当局による購入、外国使臣や外国商人からの献上、国内の参戸からの徴収などがあった。そして人参の管理は、戸部ではなく、皇帝の御物と財貨を造り、蔵し、管理する機関である尚方もしくは内帑が担当した。いわば、人参は皇帝や皇室所有の財貨として扱われたのである。その尚方などには、高麗人参、関東人参、土木人参、山西人参、北人参などが貯蔵され、良質の人参は「正北上品人参」、「真正高麗人参」、「好項高麗赤肉参」、「上項人参」と、品種・品質が明示された。また人参の単位は、枝・両・斤や片が用いられ、両や斤は明・清の影響を受けて阮朝の度量衡と考え、1斤は約600グラム、1斤は16両という重さとする。ただ枝という語の解釈については、見解が分かれるようである。漢字文化圏では細長いもの、幹から分岐したものを数えるときに枝という数詞が用いられ、人参も、根に多くの枝根を付けるので、この枝という語が用いられたものと著者は推測していた。しかし今村鞆『人蔘史』を参照し、人参に付された枝という単位には、人参の本数を示す単なる数詞以外にも、人参を斤の目方に分けて、形状と品質により鑑別された人参の別を表す語であったと解釈し直した。例えば、ベトナム文献に「人参三枝」とあれば、重さ1斤になる本数が3根となる種類の人参を意味したとみる。同じ1斤の人参であっても、枝数が少ないほど人参の形状が大きく、良質の品種とみなされたというのである。

さて、阮朝と朝鮮王朝は、ともに漢字文化圏に属し、中国の冊封関係のもとにあったが、直接的な政治・経済関係を取り結ばなかった。ただ、高麗人参がベトナムの地にもたらされたので、偶発的ではあったものの、ひととものの接触・交流はあり、その到来は異文化接触の1つの機会であった。幸いをもたらす薬用品としての高麗人参といった品目をとおして、漢字文化圏の国として“遠い”朝鮮を思い描くベトナム人もいたであろうと想像している。つまりベトナムにとって、高麗人参は朝鮮観を形成するための一素材であり、異文化を意識し、体験できる産物だったと文章を結んでいる。

高麗に渡ったベトナム李一族 (前編)

 約800年前、ベトナム李朝の王子Ly Long Tuong(李龍祥)は高麗に亡命、高麗王の高宗(1192-1259)に手厚く迎えられた。朝鮮半島で生きる花山李氏――その始まりは、ベトナム李一族であった。 

■李朝の時代 
 1010~1225年、ベトナムはLy Thai To(李太祖)、Ly Thai Tong(李太宗)、Ly Thanh Tong(李聖宗)、Ly Nhan Tong(李仁宗)、Ly Than Tong(李神宗)、Ly Anh Tong(李英宗)、Ly Cao Tong(李高宗)、Ly Hue Tong(李恵宗)、Ly Chieu Hoang(李昭皇)の9代の王が支配していた。 

 李太祖はThang Long(現在のハノイ)遷都で知られ、最盛期を迎えたのは李仁宗即位後、名将Ly Thuong Kiet(李常傑)は宋軍を撃退した。だが李高宗即位から衰退をはじめ、李恵宗が陳一族を信用し、娘の李昭皇に王位を継いだ事がきっかけで、1225年に倒れた。 

 史料によると1226年、陳朝創始者Tran Thu Do(陳守度)は李一族約300人を粛清、李恵宗を自殺へ追い込み、陳朝を創立し実権を握った。身の危険を感じた李英宗の次男・李龍祥は外国への亡命を余儀なくされ、海路、高麗へ向かった。 

■高麗への海路(みちのり) 
 この航海には様々な説が存在する。Wikipediaによると、李龍祥はThanh Hoa省から3隻で出港、途中嵐に見舞われ、現在の釜山(プサン)近郊の海岸にたどり着いた。在日ベトナム人留学生による歴史文化フォーラムでは、李龍祥はLy Quang Bat(陳守度に粛清された学者Ly Quang Chamの弟)と共に東シナ海を航海、嵐で中国にたどり着いたが、その後の生存状況は不明としている。 

 作家Kang Moo Hakの歴史小説では、李龍祥は南京に逃れ、陳朝創立により他の地を求めたとされている。またハノイの作家Vu Ngoc Tienは、李龍祥が1カ月近く海を漂流していると大きな嵐に遭遇、荒地で人気の無い台湾に着いた。 

 病気のため一時台湾に滞在したが、李龍祥はさらに航海を続けることを決心、重い病にかかった子や一部親族は200人の従軍と共に台湾に残った。台湾の李登輝元総統はこの子孫との説もある。 

 一方韓国の李一族の族譜では、李龍祥は1226年秋、1,000人を超える従軍と共に朝鮮半島北部の黄海道の海岸にたどり着いている。 
  
 地域の伝記にこんな話が残る。高麗王の高宗はある時、南から飛来した鳥が黄海の畔にとまる夢を見た。その後高宗が黄海へ向かうと、李龍祥が高麗の地にたどり着いたところだった。これが、南国の王子の高麗王との出会いである。 

■高麗での暮らし 
 高宗は李龍祥を厚くもてなし、黄海道海州(現・北朝鮮黄海南道海州市)に住まわせた。李龍祥やその従軍、一族はそこで農業・牧畜・漁業をはじめ、詩歌、音楽演奏や武道の学校を開くなどして生活を送るようになった。 

 1253年、蒙古が高麗を攻撃した際、李龍祥は高齢ながらも、白馬にまたがり機敏に軍を指揮、高麗軍に李朝独自の戦法を指導し、蒙古軍を打破するという大功績を収めた。高宗は李龍祥に将軍の座を与え、蒙古軍を打破した記念碑を建て、その地を花山と改めた。その後人々は、李龍祥を花山将軍や白馬将軍と呼び称えるようになった。 
  
 故郷への想いつのる李龍祥は、故郷の李一族を祀り、共に海を渡った人々が故郷への想いに浸れる場を提供しようと、李朝式の宮廷を建てた。また李龍祥はその生涯の末期、ある山にて、遠く南方を見つめ故郷を想い出し涙していたという。その場所は望国壇と呼ばれている。 

 花山李氏の族譜によると、一族の一部は南部に移住し、安東(アンドン)や奉化(ボンファ)で事業を始めた。1950年代の朝鮮戦争勃発後は南北朝鮮に別れ、現在は北朝鮮に1,500世帯、韓国に600人の花山李氏が暮らしていると推測される。 

 毎年旧正月になると、花山李氏の子孫たちは花山へ戻り、先祖を祀る行事に参加する。この儀式では9代続いた李朝への想いを込め、9回太鼓が叩かれる。 

■もう一つの李一族 
 李龍祥が高麗に来る前の1150年にも、李朝の水軍に属する李仁宗の養子Ly Duong Conが、一族を率いて高麗に亡命しているといわれる。 

 李神宗が崩御した際、朝臣はLy Duong Conを即位させようとしたものの失敗に終わり、政争の災いを逃れるため亡命した。韓国の歴史研究家Pyun Hong Kee氏も、「第2の李一族」の存在に関する研究を発表している。 

 韓国国立図書館に保存されている資料によると、Ly Duong Conの6代目子孫はUijiong王の下で功績を残すLy Nghia Man将軍だ。だがLy Nghia Manやその子らは殺され、生き残ったのは親戚一人のみだったため、子孫は細々とその血を継いだ。 

http://www.hotnam.com/news/070329065147.html

高麗に渡ったベトナム李一族 (後編)

 1958年、南ベトナムを訪れた韓国・李承晩大統領は、先祖がベトナム人であることを発表したという。韓国在住の花山李氏の子孫も、同大統領が李龍祥の25代目子孫であることを認めている。数百年を経て、花山李氏の子孫たちは「故郷」に目を向けるようになった。 

■故郷への回帰 
 韓国KBSテレビは1995年、Ly Xuong Canさん(花山李氏31代目子孫、韓国花山李氏宗親会元会長)が、Bac Ninh省Tu Son県Dinh Bang村を訪れ、Ly Bat De礼拝堂(李朝王位8人を祀る)を参拝する姿を放送した。 

 翌年Ba Dinh広場で行われた建国記念式典でCanさんは、Do Muoiベトナム共産党書記長に謁見、「遠く離れた場所にいても、心はいつもベトナムに向いています」という内容の書を贈った。 

 Canさんは1999年に家族と共にハノイ移住、2001年にハノイでプラスチック処理をするViet Ly社を設立、2005年にはTu Son県で、先祖を祀る礼拝堂の建設を始めた。現在は、老後をここで過ごすよう、父親も招いている。3人の子がいるが、末っ子にはLy Viet Quoc(李越国)という、ベトナムに縁の深い名前をつけた。 

■ベトナム人のように――Ly Tuong Tuanの場合 
 ソウル在住で李龍祥の36代目子孫に当たるLy Tuong Tuanさんは、小さい頃、父から先祖がベトナム人であることを聞かされたという。当時は信じていなかったが、「今は『ベトナム人』であることを誇りに思う」。 

 簡素なマンションに家族と暮らす彼は、ソウル中心部に本社を構え、金融・証券・会社再建などの分野で10の子会社を持つ、Golden Bridge社の社長だ。ベトナム語は話せないが、先祖の話になると嬉しそうな顔が見える。 

 「父に感謝しています。生前父は、勤勉さ、あらゆる試練を乗り越えるための忍耐強さ、そして先祖を愛することの重要さを教えてくれました。テレビでベトナムが紹介される時には、『李龍祥の子孫なのだから、それにふさわしい人になりなさい』とよく言われました」。 

 ベトナムに来る前までは、自分の先祖について漠然としたイメージしかなかったが、実際に訪れると心が掻き立てられるようになった。 

 初めてベトナムの土を踏んだのは2003年。ハノイ・ノイバイ空港に飛行機が到着し、外に出た瞬間、不思議な感覚を覚えた。その暑さは韓国人には馴染みのないもののはずだが、彼は心地好さを感じ、親しみを覚えた。それから頻繁にベトナムを訪れるようになり、その数は3年間で実に30回にも上った。 

 最も印象的なことは、Bac Ninh省Dinh Bang村で毎年旧暦3月に開かれる李一族を祀る祭礼に参加した時のことだ。付近の住民は、まるで遠くの家族が久しぶりに帰ってきたかのように、温かく迎えてくれた。嬉しさのあまり涙が止まらなかった。 

 「どこに行っても家族のように迎えられ、距離などまるで感じません。花山李氏の子孫として、ベトナムの経済発展に喜んで貢献したいと思います」。 

 Golden Bridge社を通じたベトナム投資を決めた。自分に流れるベトナム人の血が、愛する故郷に目を向けさせたのだろうと彼は言う。2006年初めにハノイで駐在員事務所を設立、9月に100万ドル規模のベトナム法人を設立した際には、自分の美しい故郷と、その発展の可能性を見せたいと、韓国から150人の従業員を招いた。 

 同社はベトナムでインフラ整備・不動産・教育などの分野で活動し、MBA(経営学修士号)留学生に対する援助や、韓国でのベトナムPRを支援する。目指すはベトナムと韓国、その架け橋となる企業だ。 

 彼の5人の子供たちも、最初は先祖がベトナム人であることを信じなかった。だが今では先祖の話をしてほしいとせがみ、訪れることを望んでいる。Tuanさんは、「自分達の先祖がベトナム人であることを誇るべき」と彼らに教えている。ベトナムに来ると毎回書店に立ち寄り、子供たちの手土産にする、ベトナムの文化に関する本を買う。 

 彼が小さな頃は、ベトナムに関する情報が少なかった。そのため自分の子供には、先祖の地をよく理解してほしいという。子供たちのうち4人はアメリカ・イギリス・中国に留学しているが、中学生の末っ子はいずれ、ベトナムに留学させたいと思っている。自分の先祖やその故郷についての勉強を勧めたところ、嬉しそうな顔を見せたという。 

 Thang Long(ハノイ)遷都1,000年を機に、ハノイに移住する予定だ。これが残る生涯最後の希望という。ベトナムを訪れると、「外国人」、「韓国人」、「李さん」などと呼ばれる彼だが、ひそかにこう呼んで欲しいと思っている――Ong Tuan oi!――そう、ベトナム人のように。 

(Tuoi Tre)

http://www.hotnam.com/news/070329065512.html

越南建筑

  古代越南人使用竹子和木头建造房屋抵御野兽的袭击。在出土的铜鼓上描绘着两种房屋:一种形状像船,另一种形状像龟甲。
由于越南稠密的湖泊、沼泽、河流和潮湿的热带气候,最时候的建筑材料是竹子和木头,房屋则通常采用干栏式建筑形式。直到19世纪末期,干栏式房屋仍然是越
南山区、中部、平原等地的主要建筑形式。

  从公元前2世纪到公元9世纪汉人统治时期,越南建筑的类型更加丰富,包括堡垒,皇家陵寝,城寨,民居和塔。

在11世纪,随着统一的封建国家的建立,李朝把建筑推向了一个新的发展时期。总体来讲,李朝建筑,11世纪到12世纪,具有五个典型类型:城寨,宫
殿,城堡,塔,住宅。升龙(Thang Long)城寨就是一个宫殿综合体,大部分是3-4层的寺庙。那时,升龙文化是整个国家文化的象征。

  李朝建筑的基本特征是空间复杂,形势和细节富有表现力(房檐,门,门槛,栏杆,圆形的雕刻,砖瓦的雕饰图案),具有亲柔的风格,适合越南人的传统风俗和当地气候。大众化的街道、市场,土墙屋和干栏式建筑同时演绎出皇家宫殿建筑。

  陈朝时期(13世纪和14世纪)的主要建筑形式是皇宫、佛塔-塔,住宅,寺庙,城寨。设计概念来源于越语“Tam”(汉字「三」)的形状,包括三个主要
部分:大堂、主厅和神堂。每个建筑都有4排柱子,这种结构既美观又耐用。内庭或者内花园在传统建筑风格中具有重要作用,反映了东方普遍的审美观念。皇家宫
殿建筑的设计以上层建筑和开放式、连续的长廊为主要特征,适宜热带地区的居住环境。尽管这一时期的发展迅速,主要的建筑材料仍然是竹子和木头。

  虽然胡朝只存在了7年,仍然留下了一批杰出的建筑遗产,比如清化省的西都城(Tay Do Citadel)。西都城的大门依然还在。

  进入15世纪,黎朝正统的主要建筑形式有两种:皇宫和皇陵。从16世纪到17世纪,宗教建筑,比如寺庙,佛塔,佛堂等建筑在各地出现。当封建主
义渐渐失去活力的时候,民间艺术不断地通过建筑雕刻、绘画表现出来,刻画了犁地、行船、打猎、摔跤、伐木等生活场景。在18世纪,佛塔和寺庙的建造技术得
到了进一步的发展。

  19世纪初期,随着阮朝将首都迁往顺化(Hue),越南北部北河(Bac
Ha)地区的发展逐渐变缓。同时,升龙地区的发展不断加快,城寨,文化建筑,寺庙和新的住宅区的以建设。顺化是当时发展的中心地区,大量的城寨、宫殿和陵
墓得以建设。顺化的越南建筑受到了花园住宅的影响,与河内的筒式住宅具有很大不同。顺化建筑被认为是传统建筑形式的大融合,包括规划,结构,内部装饰,园
林设计,城市规划等等。

  19世纪末期,越南建筑受到了欧洲规划师带来新建筑风格的影响,法国文化和东方文化之间的互动也影响了越南建筑。从1975年越南统一之后,越南建筑取得了令人瞩目的发展。许多新的城市和住宅区开发,工业区,新村庄等等为地区发展带来了新的艺术价值。

http://chinaasc.org/html/45/25545-21778.html
http://chinaasc.org/html/45/25545-21779.html

——————————————————————————————————————————————–

Vietnamese Architecture. Vietnamese architecture arises from the Kings Hung dynasty.

Before the 10th century, villages and hamlets
appeared in this period according to several tales of Linh Nam. The
ancient Vietnamese used wood to build houses to protect themselves from
tigers and wolves. Two kinds of houses were depicted on the bronze
drums; one in the shape of a boat and the other in a shape similar to a
turtle shell.

Due to dense lakes, swamps, rivers, and highly
humid tropical climate, the most appropriate building material is
bamboo and wood to set up houses on low stilts. At the end of the 19th
century, houses on stilts remained in mountainous areas, midlands, and
plains throughout the country.

In order to be suitable with the
rugged terrain, Co Loa Citadel was made out of clay during Thuc Phan
Dynasty in the 3rd century BC. The architecture during the Chinese
sovereignty, from the 2nd century BC to the 9th century, consisted of
various structures like ramparts, royal tombs, citadels, folk-houses,
and pagodas.

Nguyen Dynasty

The
development of Bac Ha region at the beginning of the 19th century was
slowed down, after the capital was moved to Hue by the Nguyen Dynasty.
At the same time, development in Thang Long increased and citadels,
cultural structures, temples, and new residential areas were built.

The
center of the significant development was in Hue where imposing
citadels, palaces, and tombs were built. The Vietnamese culture in Hue
was influenced by the gardened-type houses which is quite different
from the tubular type of houses in Hanoi.

Hue’s architecture was
considered as a collection of traditional influences which relied on
flat surfaces, citadel and urban centers, interior decoration, and
scenery structures.

Ly Dynasty

During
the 11th century while a united-feudal state was developing, the Ly
Dynasty initiated a new phase in architectural development.

Generally,
the architecture of Ly Dynasty, 11th and 12th centuries, had five
orthodox styles: citadels, palaces, castles, pagodas, and houses.

Thang
Long Citadel had a complex of palaces, many of which were 3-4 floor
temples. At that time, the Thang Long culture deeply reflected the
cultural characteristic of the tower-pagoda. The architectural
characteristics of the Ly Dynasty were residential complexes, more
ornamental roofs, doors, door-steps, banisters, and rounded statues,
all in a suitable design for the climate and traditional customs of
Vietnam. Streets, markets, ground and stilt houses in popular
architectural design developed simultaneously as royal palaces.

Le Dynasty

In
the turn of the 15th century, under Le Dynasty, orthodox architecture
had two dominant styles: the imperial palace and the royal tomb. From
the 16th to 17th century, religious architecture gained a lot of
popularity in architectural development.

But Thap Pagoda in Bac
Ninh Province is famous for its structure and for the techniques used
to build the tower and carve and paint the statues. When feudalism lost
popularity, folk-art continued to be reflected in carvings and
paintings describing active scenes of rowing, hunting, sloughing,
wrestling, and cutting.

The pagoda and temple construction techniques achieved progress during the 18th century.

Tran Dynasty

Under
the Tran Dynasty, the dominant architecture models were the royal
palace, pagoda, house, temple, and citadel. These styles were deeply
and significantly illustrated in the Binh Son Tower in Vinh Phu
Province, the Pho Minh Pagoda in Nam Dinh Province, and the Thai Lac
Pagoda in Hung Yen Province.

The complexity and structure of Pho
Minh Pagoda is an outstanding example of the architectural style of the
Tran Dynasty period and of the following centuries. The structure was
designed in 3 main sections: the lobby, main hall, and sanctuary.

The
inside yard, or interior garden, played an important role in the
traditional architectural style and reflected the concept of oriental
space. The contemporary architecture of royal palaces was designed with
upper floors and systems of consecutive corridors in an open-air space,
which was very convenient for living in a warm climate. In spite of the
crowded development, the majority of construction materials were still
bamboo and wood.

Even though the Ho Dynasty lasted for only 7
years, it left an outstanding architectural heritage such as the Tay Do
Citadel in Thanh Hoa Province. The splendid doors of the citadel still
remain.

Modern and Contemporary Architecture

At
the end of the 19th century, architectural characteristics were
influenced by new construction style brought by European urban planning
and the interaction between French and Oriental cultures. Since the
reunification in 1975, Vietnam’s architecture has been impressively
developing.

Many new urban and residential areas, industrial
zones, and new villages with major architectural works have brought
high artistic value to regional development. Nowadays, architectural
development consists of 5 main domains: interior design, architectural
design, environmental design, urban planning, and regional planning.
Also, issues on spontaneous development of urban area, protection of
architectural relics, and house-building strategies are problems that
need urgent solutions.

http://www.vietnambudgettour.com/webplus/viewer.asp?aid=1017&pgid=26

—————————————————————————————————————–

The original architecture of Vietnam included structures made of
elaborately carved wood and tiled roofs. The floor consisted of packed
earth or tile and the entire structure rested on four pillars. All the
buildings, excluding the village’s community house, maintained the same
architectural style with hardly any difference between a temple and a
residential house. Only the size of the building differed depending on
the purpose. With the advent of the French, Vietnamese architecture drew influences from them and this is distinctly visible in the later structures.

Architecture of Vietnam: Citadels

The architecture of Vietnam
exhibits some of the finest specimens of citadels. The Co Loa or Loa
Thanh was built in 257BC by King An Duong in Phuc Yen, one of the
Vietnam provinces. It is famous for its impeccable defense mechanism.
The royal palace sat at the centre of the structure comprising a maze
of three entwined mud-enclosures. In ancient Vietnam, architecture consisted
of brilliantly constructed fortified residences consisting of mud-wall
enclosed yard, watchtowers and entrances covered with holes to attack
the enemies. Dinh Tien Hoang had built a fortress in Hoa Lu with brick
walls and watchtowers. The royal palace was situated in the middle of
the structure. The Tay Do is another famous Vietnamese citadel built in
1790 by Ho Qui Ly. The citadel was among the best naturally guarded
ones with hills in front and a river in the west.

With the coming of the French, architecture of Vietnam had
had a makeover of sorts. It witnessed the construction of the first
French style citadel by Gia Long in 1790. Hue Citadel is another famous
construction by him. Following this many other structures of the same
pattern were constructed throughout the land.

Architecture of Vietnam: Religious Temples

Khai
Quoc was the first Buddhist temple built in the 6th century by King Ly
Bi. From 7th century onwards there was a certain shift of paradigm in architecture. Vietnam
witnessed the construction of a large number of Buddhist temples. Some
of the famous temples were the Phat Tich, the Dam and the Dien Huu. The
Dien Huu is renowned for its architecture. It is built in the shape of
a blossomed lotus. The temples of this period had multi storied towers
and the interiors decorated with beautiful statues. The designs and
decoration had Vietnamese motifs of dragons, elephants, chrysanthemum,
and lotus. Some of the sculptures manifest a strong influence of the
Cham art.

The temples from the time of the Mac era contained a
huge collection of wooden statues. They included statues of Buddha,
saints and royalties cured from jackfruit wood. Architecture of Vietnam in
the early nineteenth century witnessed the restoration and expansion of
many existing temples in cities like Ha Noi, Hue and Saigon.

The architecture of Vietnam
is also a reflection of how the culture of Vietnam evolved through the
ages. Influence from the west resulted in the replacement of the
traditional materials for the construction of temples. Now iron, steel
and concrete was being used for the construction. New temples showed
clear influence of architecture from Japan, China, India and Europe.

http://www.asiarooms.com/travel-guide/vietnam/culture-of-vietnam/architecture-of-vietnam.html

————————————————————————————————————————————–

Vietnamese
architecture
                                                                      

by Ngo Thanh
Son – u047002y

Email: dcsnts@nus.edu.sg

 

"Never be afraid of expressing your idea"

 

Introduction

                  

                                                   
 Hue imperial
city
  

Vietnam has a long
history. Her root can be traced back to two thousand years Before Christ when
the first Vietnamese settled a long Red river’s delta. Because of a long
history, Vietnam has a rich and distinctive culture. Architecture is an
essential part of a country’s culture and history. In this essay, I want to
plot a general picture of Vietnamese architecture from past to present.

When visiting or studying
a country, we often pay attention to her architecture. Architecture is one of
the most obvious ways to distinguish countries. It characterizes the nation and
their people. It shows the life, thought, characteristics of people and
prosperity of the country. Architecture is not just about houses and building.
It also consists of city planning, bridges, monuments, and interior, outer
design art.

Vietnam has a unique
architecture. It owns the following traits:

Ø     
Vietnamese architecture is not characterized by giant and magnificent
structures line Angkowat in Cambodia or Great Wall in China. Its attractions
lie in the charm, harmony with nature, convenience to civil usage and artistic
features.

Ø     
Vietnamese architecture is an excellent example of combination between
different civilization and architectural trend. We can see the influence of
Chinese, French, Japanese in building throughout the country.

Ø     
Religions and philosophies have big impact on Vietnamese architecture.
The design of the building should be compliant with supernatural rules.

Ø     
The French colonization and a long war (1945-1975) destroyed some
national heritages and old buildings in Vietnam as well as slowed down urban
development. But now it regained the thriving.

Studying architecture we
will understand the history, people and culture of Vietnam. For the rest of the
essay, I want to present a brief introduction to Vietnamese architecture until
the end of French colonization in discrete topics. It definitely can not cover
the whole picture of the issue but it will give a draft idea of an aspect of a
civilization.

 

Traditional Vietnamese architecture

Vietnamese built their
nation long before the Chinese invasion around 200 BC. The only remnant of the
period before Chinese occupation (200BD to 1000 AD) is Co Loa citadel. It’s
located in the suburb of Hanoi. It has a spiral shape and was built to protect
the capital from Northern invaders. Annually, the villagers celebrate festival
to remember An Duong Vuong – a King of ancient Vietnamese Kingdom and built the
citadel.

Chinese civilization imposed
long and strong influence on Vietnamese architecture. The Chinese occupied
Vietnam and made it a state of Chinese empire from 2nd century BC to
10th century AD. In 12th century, China carried out
assimilation policy which changes foundation of Vietnamese society. Vietnamese
architecture underwent a big change. Chinese officers built citadels, palaces,
residential houses to cater their political and living requirement. Following
their annexation was migration of Chinese from China. Hundreds thousand of
Chinese migrated and settled in Vietnam. They gradually adopted Vietnamese
style and mixed up Vietnamese society. They built houses and other structures
based on their Chinese styles.

But the more Vietnamese
absorbed Chinese civilization, the stronger their national identity and
independent desire is. Vietnamese won independence in 10th century
with a great victory of Bach Dang. After a short period of political
disturbance, the nation entered a long prosperous and thriving period until 16th
century when civil wars broke out and lasted long. A lot of buildings ware
constructed for political, educational, religious and residential purposes. But
Chinese civilization left an indelible stamp on Vietnamese architecture. A lot
of the old structures in Vietnam resemble their counter parts in China but in
smaller scale. And scripts in each building are in Mandarin or Nom (ancient
Vietnamese writing system). The influence of China continues throughout the
history because of close contact with Vietnam. But China also imported some
Vietnamese architects. It’s known that the chief architect of Forbidden
City in Beijing is a Vietnamese named Nguyen An.

But Vietnamese also
invented their own distinction. The tropical climate in Vietnam is hot and
humid. The building is constructed to fit with this condition. Because of
frequent rain and flood, the roofs of building are steeply, long protruding and
the base and doorstep are high.

Vietnamese architecture
shows a strict compliance with Oriental philosophies. Vietnamese believes that
every piece of land is guarded by a deity in-charge. So before building a
house, they often conduct a ritual to ask permission and request fortune and
from deities. Vietnamese acquired Chinese practice of building according to
geomantic principles. In geomantic, they believed that every site, mountain,
river, lake hold spirit and it may benefit or harm residences. So the location,
direction of the building must be calculated carefully. The city of Hanoi and
Hue are planned in this way. There are some important factors that need to be
considered when build a house like direction of entry door, floor space,
proportion of component of the house, proximity to graves … The site of the
tomb was considered very important. It can affect the descendant of the
pass-away. Therefore, Kings and elites hired geomancers to determine
appropriate location and direction for their tombs.

 

Communal house

 

Every Vietnamese village
has Dinh or communal house. This is a common place of villagers where they can
gather for religious purposes, meeting, banquet or festival. It shows a strong
sense of community in Vietnam way of life. Some important decisions regarding
the village were discussed in Dinh with the presence of villagers. Inside Dinh,
there is an altar of the “master” of village. This person usually is one
outstanding pass-away villager who is worshiped and considered as guardian
spirit. It’s commonly believed that the sitting of Dinh affect the fortune of
the village. The position of Dinh as well as surrounding trees, ponds and yards
are arranged carefully and compliant to geomantic principle. The construction
of Ding is carried out by master artisans and skillful workers.

Dinh used to play an
essential part in rural activity of Vietnamese in the past. During farming
collectivization economy, the farmers used Dinh as a place to collect farming
product in harvest period. Nowadays Dinh may lose its role in rural life when
Vietnamese turn to more pressing economy and communal atmosphere is being faded
away.

 

Religious architecture

Buddhism and Christianity
are two main religion of Vietnam. Because of that, I want to introduce
architecture of temples, pagodas and churches.

Buddhism has a strong
impact on moral life of Vietnamese. This is the reason that pagodas can be
found in every region of the country. Buddhism came to Vietnam via China in
about 9th century, so it has followed Chinese school of Buddhism.
Religious constructions also serve as a worship place for people to show their
respect to national heroes, great men and even persons who only exist in myths.

Brick and wood
constructions house elaborately carved statues of Buddha, heroes, immortal
genies, … Although statues of Buddha appear in many countries, they have
distinctive looking in Vietnam. Pagoda’s architecture shows Vietnamese
interpretation of Buddhism. Some creatures like tigers, dragons, dogs are
carved in walls, pillars or statues in front of building as symbolic guards.
Vietnamese Buddhism allows not only Buddha but also other deities worshiped in
pagodas, temples. A pagoda is always surrounded by a green campus with tropical
plants and beautiful ponds, soaked in tranquil atmosphere. It indicates the
view of harmony and mingling with nature of Vietnamese people.

Single-pillar pagoda is a
unique structure in Hanoi. A single pillar standing in a lotus pond supports
the whole pagoda.

Pagoda architecture is
focused on the fineness instead of scale, massiveness. We can find many small
but beautiful structures in Hanoi and other provinces. They are like
decorations for the bustle city. This is a structure in the middle of
Return-sword lake:

Literature temple is the
oldest school of Vietnam. It was built in 11th century and located
in Hanoi. It’s dedicated to Confucianism teaching and reserved for imperial and
mandarin’s families. Confucianism was regarded as official philosophy in
Vietnam until 19th century.

An altar of Confucian is worshiped in literature temple as the teacher of
teachers

Although Christianity was
introduced to Vietnam as late as 17th century by missionaries, it
has created remarkable impact on Vietnamese architecture. Christianity brings
along with it Western culture. Many catholic churches were built in 19th
and first half of 20th century by French colonizers. This is Saigon
Church in Ho Chi Minh City which resembles its counterpart Notre
Dame Church
in Paris. It’s also designed by French architects.

While most of churches possess Western architecture, Phat Diem church has a
special architecture. This is the combination of Oriental architecture with
Western ideology:

The church is built
totally on stone. The appearance of church has all of its features belonged to
traditional Vietnamese architecture. The roofs are curve, long and made of brick.
The gates and windows are spacious that make the structure like an open space
rather than a closed building. Inside the church is space for Christian
practice with Jesus statue and all the things that can be found in a typical
church.

 

Palace architecture

Vietnamese emperors didn’t
have the habit of building enormous palaces to cater their luxury living like
in China. Some royal architectures are scattered in Hanoi and surrounding
provinces but their remaining is in ruin. But Nguyen dynasty, the last regime
of Vietnam, constructed magnificent structures in old capital Hue called
imperial city.  Most of them are still in good condition and were used by
the last emperor until 1945.

This is the main gate in
Ngo Mon gate to enter the city. The central gate and the bridge in front were
reserved for emperor. All the other had to walk around the lotus pond to enter
through the side gates. The principle of symmetry is obeyed strictly in palace
architecture. The structure looks similar to the Forbidden city in
Beijing but in smaller scale. This is the rear gate:

Inside the city is a
complex of imperial houses, tombs, temples, pavilions, libraries, …

Dragons are very common
subject for decoration. In oriental philosophies, dragons symbol the nobleness,
strength, holiness and are used intensively to decorate roofs and side walk of
the palace.

The architecture of Hue
imperial city borrowed heavily from idea of imperial structures in China. It based
on the concept of monarch as the center of the world and symbol of power
originated from Confucianism. Every Nguyen king was buried near the city. They
built their magnificent tombs while they were alive. It’s a common belief that
the life after death is important and it may affect the livings. This is Khai
Dinh’s tomb:

 

Architecture of Minority ethnic group

Beside
the mainstream of majority ethnic group of Vietnamese, the kingdom of Champa
also flourished in the central and south of Vietnam before 15th
century. This is an Indianized state in Southeast Asian whose major religion is
Hindi. Since 15th, the Kingdom gradually became weaken and was
absorbed by Vietnamese by both influx of immigration and conquering wars. Now
the remaining towers, sculptures of this ancient civilization can be seen in
central provinces of Vietnam. Spectacular Cham stone towers stand in My Son and
Nha Trang, reminding a brilliant civilization.

While traditional
Vietnamese architecture is influenced by Chinese culture, the architecture of
Champa is under impact of Indian civilization. It also resembles architecture
of Angkowat in Cambodia or Bali which belong to the stream of Indian culture.
If the main material of Vietnamese architecture is wood, most of building of
Cham is made of stone and brick. Like their counterparts in India, the builder
carved the statues of beasts, gods, dancing girls in the facades of each
building. The walls, pillars, roofs were designed and decorated artistically
and sophisticatedly. The structures were built for religious purposed, so they
are tall, pointed and windowless.

These buildings were long
abandoned from their original purposes as ritual sites and Cham became a small,
powerless ethnic group. But Vietnamese government is trying to preserve Cham’s
culture including architecture. Cham tower was recognized as world’s heritage.
Now these sites become attractive tourism places. This testifies to the
pluralism of Vietnamese culture.

 

Mixture with neighbor’s cultures

Hoian old town is a
prominent example of architectural assimilation. Hoian used to be an important
trading port in Southeast Asia for several centuries. It was home for traders
from Japan, China, and Southeast Asian countries. Hoian’s old quarter still
reserves many old buildings since 16th, 17th centuries.
Covered bridge is a special architecture built by Japanese residences:

The bridge crosses a small
canal. In either end of the bridge are statues of a monkey and dog which
indicate that the bridge was built from year of the Monkey to year of the Dog.
This assembly hall was built and severed Chinese community in Hoian:

This street used to be a
thriving business center. The red lanterns and Chinese characters make a
Chinese atmosphere. The old house is inhabited but still reserved by
government. The residences are supported by government and guarantee that they
will not make damage or changes to the structures.

One may questions what is
indigenous Vietnamese architecture? Throughout the country we can discern a
feature of some other cultures like Chinese, Western, .. in each building. It’s
due largely to a long time of Chinese annexation and cultural influence
aftermath. French colonization created a new Western favor in architecture.
Vietnam is a centre point where people from abroad can find their living.
Vietnam is open and welcome people from all over the world. Or we may think in
the other way: Vietnamese absorb foreign civilization and adapts it into
domestic situation. Vietnamese culture is tolerant. It never rejects new idea
from outside but doesn’t copy it blindly. We have cultural power to assimilate
foreign influence. Interestingly, the more we expose to foreign civilization,
the stronger our national identity is.

In term of architecture,
looking through the surface to inside detail may get different perspective.
Although the traditional architecture’s appearance may borrow elements from
China, the layout is different. And the communal house found in every village
is built, planned, used according to Vietnamese perception and Vietnamese way
of life. French architecture was modified to be suitable with tropical climate.
Charming French-Vietnamese buildings can be seen Hanoi or Ho Chi Minh cities.

 

French influence

After French completed
conquering the whole country and stabilized their ruling in Vietnam, they
conducted plan to build Western buildings, boulevards in major cities and
transformed them into more modern cities with Western architecture and city
planning. This is Opera House in Hanoi which is reckoned to be replica of its
namesake in Paris, although it’s not as majestic:

This is Metropole hotel
built in in Hanoi:

French colonizers soon
constructed office, administration building, villas, hotels, public houses,
mostly to serve their ruling and living of French residences in Vietnam. French
influence came along with French culture and education. A number of upper and
middle class Vietnamese exposed and adopted Western education, language and
traditional oriental education system was abandoned. A class of French educated
architects used French architecture and innovated a new style called “Indochina
architecture”. Hanoi still preserved a large number of villas and building
built before 1945 with variety of architectural styles:

Nowadays most of Western
style villas and French buildings are used for offices, foreign diplomatic
quarters and state organisms because of their elaborate and charming designs.
Some others are divided into several residential flats.

But along with urbanization,
French also demolished many traditional structures in Hanoi. The pagoda in the
middle of Return-word lake (shown above) is the remaining of a complex pagodas
which were destroyed by French to build Western architecture.

A big share of French architecture
can be found in Ho Chi Minh City, which once was described as a miniature
oriental version of Paris. Unlike Hanoi, Saigon never underwent a war so it
preserves pretty much of its architectural heritage. This is Saigon opera
house:

 

Conclusion

Architecture is always
associated with culture, history and people. Throughout the essay, I want to
present the flow of Vietnamese history and how it has carved into a concrete
form of architecture. One obvious property of Vietnamese architecture is the
combination with other civilizations. I’m a Vietnamese and I would like to say
that Vietnamese architecture is a mirror, inferior mirror of Chinese, French
and later Russian architecture – the superpowers that imposed big influence on
Vietnamese history. We developed our own character but it’s hard to stand out
of the orbit.

Everything is history and
we need to respect history. One time because of communist ideology, they
thought that they can abolish everything and build up a new future without a
base of history. Because of that and a difficult period of war and economic
stagnancy, a lot of national heritages were not well preserved until recently.
Vietnam is going to gain her economic prosperity that manifest in skyscrapers
being built up in big city like Hanoi, Ho Chi Minh City. We hope that we will
create our own characteristic rooted in tradition and combined with
quintessence of mankind.

           

 

November 2006

http://www.comp.nus.edu.sg/~ngothanh/VN_architecture.htm